ayunov’s blog

負の裏垢

変人と呼ばれ続けて

記憶にある限りでは小学校低学年の頃には既に”変わっている子”呼ばわりされていたと覚えている。 単純に外で遊んだり友達とキャッキャウフフしてるよりもパソコンバラしたり基盤いじってる方が好きだっただけなのだが。 これも現代じゃADHDだかASDだかアホみたいな呼び名を付けておもちゃにされるのだろうから、その点ではそんな概念のなかった時代に生まれて良かった。

小学生の時分、今でも覚えている面白いことがある。 小学4年生の頃だったか、私の育った大阪というところではコツコツとした努力より口と政治なのだと悟った。 我ながら随分早熟で嫌味なガキである。 それまでの自分はといえば社交的とは言えないし無口であった。 得する方がいいに決まっているので、喋る練習をした。 家の帰り道で適当に駄菓子屋で喋ったり適当に大人と挨拶がてら喋るのだ。 そしてボチボチ楽して得する生き方を習得した。

そんな謎学習をした結果のトーク力なので、ナチュラルボーンコミュ強ではないのだ。 たぶんそんなところが人からすれば喋れるし善人だけどちょっと変といった評価を頂戴するに至るところなのだろう。 だろう、というのは本当に自分では何が変なのかわからないからだ。 どこらへんが変わっているのか、と聞いても答えが返ってきたためしはない。 悪口を言われるというのでもないので、本当に言語にできない違和感みたいなものがあるのかもしれない。

さらに大学生にもなるとまた変化があった。 ”変人”が褒め言葉化してきたのである。 たしかに大学生ともなると、それぞれ自我・個性が確立してきていないと困るだろう。 就職ともなればそれをアピールする必要もでてくる。 その頃も相変わらず(人に言わせれば)変人をやっていたわけだが、それが独立した個人観をかもしだしているといったニュアンスのようであった。

自分としてはこの”変人”という称号は大嫌いだ。良かった試しなど無い。悪目立ちもする。 できることなら普通カテゴリでいたいし目立ちたくもない。 今となっては喋るのはそこそこ得意だし好きでもある。そして大抵誰とでも友達になれるが、六つ子の魂百までってもんで今に至って尚、孤独も愛してる。 ただ本当ならば、ありのまま無口で孤独のみ愛していられれば心穏やかだったろうなとも思う。社会では生きづらいかもだけど。

自分からすれば変人で居続けることもできなかったけど、人からは結局変人と呼ばれ、なんやかんやお噂はかねがねの人になってしまう。 実に癪なことである。今も名無しのおっさんとして街に溶け込むか、半径500m以内に人間がいない世界を夢想している。

はやりのFIREとやらまでは望まないけれど、もうぼちぼち現役からは引いていきたい。 そして人知れずひっそりと生きられればそれが自分にはなにより幸せなんじゃないかと毎晩思い馳せているのである。 といってもこれから10年くらいが人生一番の現役っぷりになりそうなのだが… とりあえず稼ぐだけ稼いだら今度こそ静かに生きようと思う。

人生の区切りごとに何度思いを新たにしたかわからないけれど―たぶん5回以上は決意しているが、次こそは成功させてみせよう。 もう私は人様からの評価で削れきった界面活性剤のようなものであって、とうに擦り切れているのだ。 疲れた。

揮発性の情報媒体になぐり書きをする快感

X、もといTwitterのことを言っています。 先に申し上げておくが、Xという名前はあまりにも厨二病がすぎると思っていてセンスの欠片も感じないのでTwitterとこの場では呼ばせていただきたい。 イーロン・マスクのことは尊敬しているし、Twitter言論界(笑)の救いだと思っています。

膨大なツイートが洪水のように流れていくTwitterが大好きだ。 あまりに多くのツイートが流れていくので便所に貼られたチラシの裏ですらなく、トイレットペーパーに呪詛書いて流しているような世界と思っている。 そんな環境は常に頭の中で煮えたぎっている呪詛を吐き散らすのに便利なのである。 決して自己顕示欲を満たしたいのではなく、また、稼ぎたいわけでもないからフォロワー数は抑える。リプもぶら下げないので読みづらいようにしてある。 ただ吐き出すだけならそれでいい。

しかし最近は歳を取ったからだろうか、一つの呪詛がえらく長くなってきてしまった。 発狂寸前の世界観で生きているからしょうがないのだけれど。 また、140字の世界ばかりやっているとまとまりのある長文がだんだん書けなくなってきている気がする。

思いついたことをなぐり書きしていれば形になるシステムは斬新だったけれど、そろそろ一周回ってもいいかということでblogにしたためている。

今でこそ世界中の呪詛が集まる素敵なツールなのだが、昔のマイクロブログと呼んでいた時代が懐かしい。 ただ、昔のユーザー達の振る舞いはそもそもチャットなのではないかと思う。 マイクロブログという触れ込みで始まったが、実体は当時沢山いたチャットユーザーが壁打ち的にやり始めていたようにも思う。 時代を経て、入力がクソ遅いスマホに先行して最適化してしまった、実にダーウィニズムらしい生き残りをしたのがTwitterなのだろう。

そして万人がITに繋がり、思想が流れてくる場所になるに至り、私も含めて世界はこんなにもふわっとした憎しみに満ちているのだなと感慨深く楽しんでいる。

あ、でもアフィとか情報商材系のツイートはマジでクソおもんないと思ってます。

人間不信と家族

人生生きていると数え切れない程の裏切り・不義理が発生する。 これ自体は今に始まったことではなく、太古の昔からそうなのだろう。 あ〜ハイハイ、って感じで済ませるのが大事だ。 自分の場合まぁまぁ取り返しついてなくね?ってこともあるのだけど、過ぎたことはしょうがない。

かといって他人を信じず一人で生きていくのはなかなかに大変である。 何かあった時の救いがいきなり社会や制度といったものまですっ飛んでしまう。 そんなわけで最後には助け合う義理ってものがあるのが家族や一族なんじゃなかろうか。 もちろん家族が常に円満なわけでもないし色々あるだろうけれども。

私事だけど、自分の育ちは今で言うところの機能不全家族だ。 中流家庭ながら、ずっとヒスってる母親にチン騎士の父親、それが自分の育ちだった。 まぁ私自身が人に言わせれば変わり者らしいので、断罪するつもりもないし評するつもりもない。 ただ自分主観では家族というコミュニティは生まれて初めての人間不信の対象になった。

この令和のご時世、SNS全盛期となっている。 そこでは日々毒親ネタやら男女論、限界家庭の話が飛び交っている。 なんとも自分には近しいような遠いような話がネットにぶちまけられているのだ。

司法も昔のように家庭の中は治外法権という時代ではなくなった。 家庭は完全に司法に組み込まれたように思う。

こうなると不幸な家族のあり方は一般常識になる。 気に食わなくなったら司法行きになり、法の問題あるあるななんとも納得のいかない解決がてんこ盛りになる。 そんなわけで自分にとっての”なんだかんだ言うても最期まで仲間”である家庭という幻想はもう存在しなくなっているのではないか。

みんなが私のような人間不信レベルまで堕ちてくれてなによりだが、碌なもんじゃないことは間違いない。

最早個人が持つ属性ごとの躾や当たり前、常識も消えてしまった。 やっていいことと悪いことは法に丸投げするのだろう。 そんな穢らわしい形になってしまった個人主義がかつて夢みた自由主義世界だったのかと思う。

幸いといっていいのか、ただの揺り戻しなのか、今Z世代と言われる子たちは一周回って帰属意識のある世界を望み始めているようにも見える。 流行りはループするとは言ったものだが、こういうことでも起きるものなのかと思いつつ若い人たちとお喋りなどしている。 それを聞きながら内心、もう失われた文化や知識は世代ごと消えたし、何より社会のあり方が昔のスタイルを許さないのだから彼らの未来は暗そうだなとも思っている。 無事世の婚姻数も減っているらしい。そりゃそうだろうなとしか感想を抱けないけれど。

ようこそ人間不信の世界へ。みんな寄る辺のない人生に苦しんで欲しい。

貧しさは人を邪悪にする

私も人間なので困ってる人に優しくすることや手助けすることに悪い気はしない。 だから俗にいえば、ありふれた程度にお人好しといっていいと思う。

ただ、たまに失敗をしてしまう。 相手の貧しさを見抜けなかった場合だ。 貧しい人間というのは、義理や筋を通すだけの余力がないのである。 無い袖は触れないと言うが、金銭だけではない。 良き人間関係というのを足蹴にしてしまうような行いをするのである。 安く手に入るなら人の良心を無下にする。 そんな人間だから何かにつけ上手くいかないんじゃないか、とは見てて思うけれども。

何も貧しいことが悪いのではない。 貧しいか豊かかなど程度の問題であるし、どんな貧富であろうとそれに合わせて善良に生きてる人は沢山いる。 しかし時折、自身の懐以上の理想を人の助力をアテにして達成しようとする人はいる。 もっと言えば同じ人間でも魔が差すというのだろうか、これをやってしまうことがある。

そして、悲しいことに私はよくそういうのにぶち当たってしまう。 若い子は金がないのは当然だし、微妙な商売しててもいい人というのはいる。 だからといってそんな相手に仏心を出すのはあまり愉快な結果にならないもんだな、と最近は思い至っている。

貧しい者に手を差し伸べると、邪悪という程でもないがゆるっと悪気もなくふんわりとした過程を通ってただただ不愉快な結末になりがちなのだ。 人並みに冷たい人でいることもまた、長く人間関係を築くには大切なのだとも言える。